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【戦艦歴史】長門型一番艦長門

1919年(大正8年)11月9日に進水しました。。艦の本当の全長216mや最大速力26ノットは隠され、対外的には660(201m)、23ノットと公表しています。

ワシントン海軍軍縮条約によって41cm(16in)主砲搭載・艦型35000トン以上の大型戦艦の建造が制限される海軍休日が始まると、「長門」と姉妹艦の「陸奥」、イギリスネルソン級戦艦2隻、アメリカ合衆国コロラド級戦艦3隻を指して世界のビッグ7と呼ばれました。

世界で7隻しかいない40cm砲搭載戦艦である「長門」だが、その巨砲を実戦で発射する機会は長らくありませんでした。

「陸奥」が佐世保鎮守府所属だったことから、東京海軍省や軍令部と往来が容易な横須賀鎮守府所属の「長門」が連合艦隊旗艦に選ばれたとされています。

終戦後は1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。「長門」は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁へ出発しました。

7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が「長門」のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって転覆し沈没したものと見られる。ただ一説には、「長門」の浸水を食い止めるなど、保存などの為に緊急修理をする予定が立てられていたが、最終的には行われず沈没したという逸話もあります。

長門」が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。もっとも、被爆を耐えた艦は「長門」以外にもおり、沈没を免れた米戦艦「ネバダ」、アメリカ軽空母インディペンデンス」、ドイツ重巡洋艦プリンツ・オイゲン」(後日座礁放棄)等も存在する。しかしながら第二実験(BAKER)の実施前に長門の艦首部に穴が開けられており、さらに機雷が艦体に装着されていたとされる[46]など他艦と比べて不利な条件であったとも言えます。

現在、「長門」沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。しかし、核実験の放射線の影響のため艦体に直接ダイバーが触れる事は許可されていない。沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で現存しているのは「長門」だけである。現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れているそうです。

以上が長門型の歴史です。

ウキペディアの情報を基に作成しました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E8.89.A6.E6.AD.B4